中曽根・キッシンジャー対談の概要(1990年)~戸川利郎

中曽根・キッシンジャーのシンポジウム対談の概要(1990年1月)


 二十世紀の国際情勢を振り返り、二十一世紀の地球を展望するため、1990年にハワイで行われた中曽根康弘元首相とヘンリー・キッシンジャー(元米国務長官)の対談の概要です。指導者の資質、国際経済のブロック化、宗教や民主主義の問題点などについて交わした論議をまとめました。

 ◇21世紀の指導者像を探る◇

 司会 これから二十一世紀にかけて世界をリードしていく指導者には、どのような資質が必要だろう。お二人はこれまでに、世界の様々な指導者と接触してきたと思う。印象に残ったのはどんな人物か、うかがいたい。

 ◆ビジョン貫く勇気/キッシンジャー◆

 キッシンジャー 最も重要な指導者としての資質は勇気だ。指導者、あるいは政治家の任務は、国民を現在いるところから未知の世界へ導くことだ。政治家が下さなくてはならない難しい決断は、概して、決断当時はその重要性が分からないものだ。首相や国務長官の前に届けられる決裁案件は賛否両論が併記されているものだ。私の経験では、知性ある人材を雇うことはできるが、勇気そのものは雇うことが出来ない。もちろん、勇気を持つためには、多少の知性は最低限必要だ。しかし、勇気は依然重要な資質であり、勇気なくしては、困難な道を信念を持って歩むことができない。

 映画の中だと、危機に直面した人々は、たいてい、飛び回りながら受話器を取り、どなり合い、言い合いをしながら意思決定する。ところが、少なくとも米政府内ではこうした場面は起きない。危機発生時の政府内はほとんどの職員が姿を消してしまう。だれも責任を負いたくないからだ。こういう時に、喜んで責任を負うスタッフが二、三人残る。こういう面々を、まず昇進させるべきだ。

 最高責任者の地位に昇りつめるまでの重要なテストのひとつは、その人物が明るい将来を描けるかどうかだ。ドゴール仏大統領とその前のフランス第四共和制(注1)の首相たちとの違いは、知性にあったのではない。いずれも非常に知性豊かな人物だった。しかし、ドゴール氏はビジョンを持っていた。さらに、そのビジョンを貫く勇気を持っていた。私は、これまで会った多くの指導者の中でも、ドゴール大統領に対して強い尊敬の念を持っている。

 アメリカの指導者の中では、トルーマン大統領とニクソン大統領を高く評価したい。前者は戦後の時代をつくった。後者は全く新しい政治の時代をつくろうと試みた。こうした資質が今こそ必要だ。しかし、マスコミや選挙キャンペーンの現実があり、もはや、こうした資質を持つ人物を見いだすのはたやすいことではなくなった。二十一世紀の真の課題は、資質ある指導者をどこに見いだしていくかにあろう。

 私が歴史の中で学んだ偉大な指導者たちは、人生の中で一度はじっくりと考える時期を経ている。その間に自分を知り、社会を学んだ。ドゴール大統領は亡命し、トウ小平氏は投獄された。ニクソン、トルーマン両大統領も、チャーチル英首相も雌伏の時期があった。

 現代の生活は非常に忙しい。十分な思考の時間を与えてくれない。そこで、差し迫った問題にのみ目が行き、本当に重要な問題を見過ごしてしまう。現代の大きな試練だと思う。


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 〈注1〉第二次世界大戦後、ドイツからの解放をうけて一九四六年九月に樹立された新体制。一七八九年のフランス革命で成立した第一共和制から数えて四度目の共和政体という意味。この後、一九五八年、「ドゴール憲法」と言われる新憲法が国民投票で成立し、フランスは第五共和制にはいった。同共和制の初代大統領はドゴール氏。

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 ◆強い意志・理想主義/中曽根◆

 中曽根 二十一世紀にかけての指導者の資質の一つは、非常に強烈な理想主義を持っていること。そして、非常に強い意志力を持っていることだ。さらに、大衆社会に自分の考えを実行させるだけのコミュニケーターとしての力も必要だ。ニクソン氏が書いた指導者論を私は非常に面白く読んだが、指導者の素質、資質について、大事な点は、勝負の場所を見分ける力とそれを押し切ってやる力ではないだろうか。強い意志を持つ人は、荒野にあって、時には悪者にもされるが、それでも屈しない復原力を持っている。これが非常に大事な点で、トウ小平氏はその典型的な存在だし、ほかの人たちもみなそういう経験をしてきている。

 しかし、これからはテレビ時代だから、一面において非常に深い哲学性、思考力、洞察力と同時に、大衆を説得する力も必要だ。迎合しない性格、カリスマ性も大事だろうと思う。そういうものは、その人が生まれつき持っているものが非常に多い。

 大切なのは、政治家としてのプロ根性だろう。政治家の場合は、やはり仕事を残すことだ。歴史の批判に耐えて、歴史を相手に取り組む。そういう根性を持ってかかることが必要だ。歴史の審判で勝つという気概が大事だろう。それはニクソン氏も言っていた。

 尊敬する人物を三人あげれば、一人はマハトマ・ガンジーだ。彼は非暴力運動を徹底してやった。指導者としての一つの立派なあり方を示したと思う。それからドゴール。この人のカリスマ性というか、演技力は、それと見えないように装いながら大変なものだったし、愛国心や理想を非常に強く持っていた。それからリンカーン米大統領だ。随分欠点のあった人のようだが、大きな仕事を成しとげた。

https://kamittochuuch.com/krishnamacharya/

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 キッシンジャー リンカーン大統領に関する中曽根さんの見方は正しい。いなかったら歴史は変わっていただろう、と言えるほどの人物は、ほかにほとんど思い浮かばない。リンカーン大統領以外に、合衆国を一つにまとめ上げられる人物はいなかった。しかし、リンカーン自身は非常に複雑な人間だった。著名な政治家はいずれも非常に錯綜(さくそう)した人間的野心を持つ人物ばかりだ。リーダーシップの本質にはそうした複雑性がはらんでいるものだ。リンカーン大統領には確かに複雑性があった。そして彼は間違いなく最も偉大な大統領だった。

 司会 キッシンジャーの言ったトルーマン、ニクソン両大統領は、日本ではあまり人気がない。この二人のどういうところがすぐれていたのか、もう少し詳しく説明していただきたい。

 キッシンジャー トルーマン大統領は、基本的に孤立主義的な米国を引き継ぎ、国内の強い反対を押し切って、国際関係に直接関与する国に転換させた。私は、トルーマン氏と初めて会ったとき、任期中で最も誇りに思う業績を尋ねた。彼は、第二次大戦で敵国を破り、降伏させた後、再び国際社会に復帰させたことを一番誇りに思うと答えた。この行為は米国民だからこそできたことだ、とも答えた。崇高な感情だ。また、彼の言葉は恐らく間違っていない。

 ニクソン大統領を理解するのは確かに難しいが、二十世紀の米大統領の外交政策で、独自のアプローチをしたのはニクソン氏だけだ。他の大統領は保守もリベラルもすべて、米国は道徳的な責務を世界に対して担っているという考えだ。それに対し、彼は、国益に対する現実的な判断を基礎とした新しい外交政策の道を開こうとした。そうした外交は米国の歴史に前例がなかったため、リベラル、保守の両派から攻撃された。しかし、現在の米国の外交政策の構図を、世界的視野から客観的に見た場合、軍備管理交渉、ヘルシンキ合意、中東和平交渉など、今起きていることの多くがニクソン政権時代に始まっている。ニクソン氏を批判する者も結局、彼の政策に戻らざるを得ない。
 
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 司会 トウ小平氏はどんな指導者だろう。

 ◆毛沢東を超えるトウ氏/キッシンジャー◆

 キッシンジャー 天安門事件は悲しむべき事件で、こうした暴力的抑圧は正しくないが、それでも私は、トウ小平氏が中国で最も改革主義的な指導者だと思う。毛沢東、周恩来も傑出した人物だが、三人の中では、やはりトウ小平氏がぬきん出ている。彼は、これまでの共産党指導者がやったことのない改革に着手し、農村を解放して食糧輸入国を食糧余剰国に変えた。彼は、経済改革に匹敵するだけの政治改革はしなかったが、それは彼が第一世代の革命家として、共産党の地位の下落を受け入れられないからだ。しかし、彼は経済改革を今後とも続けるだろう。そうすれば政治改革はやがて続いてくる。今回の事件だけでトウ小平氏を悪者にするのは正しくない。

 中曽根 トウ小平氏は、中国の将来に向け、きちんとした機軸を作って世を去りたい、そういう熱情を持っていると思う。私は、トウ小平氏に会った時に、「あなたは八十年の生涯をかけて中国の革命をやってきたけれど、何が一番うれしかったか」と聞いた。彼は、「第二次世界大戦の終わりに、国民党軍を掃討し、中国の原野を台湾まで追い詰めたときだ。あんな打ち震えるような喜びはなかった」と言っていた。彼は教条主義的な革命家ではなく、実事求是でまさに中国人の革命家だ。

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 司会 エジプトのサダト大統領はどうか。

 キッシンジャー サダト大統領は大変偉大な人物であり、私が会った中で最も優れた指導者だった。絶大な勇気を持っていた。彼なくしては中東に平和は訪れなかっただろう。彼にとって危険な協定に合意したことが何度もあった。最後には、それが彼の命取りになった。

 私が最後に会った時も、精神の偉大さを見せてくれた。あれは、死去するわずか三週間ほど前だった。彼は、シナイ半島返還式典の際にはエジプトに来るように、と私を招いた。しかし、一呼吸置いて、「いや、来ないほうがいい。イスラエルにとっても、あれだけの領土を返上するのはつらいことだ。むしろ三週間後に来てくれ。返還が終わった後だ。その時には、あなたと二人でシナイ山の頂上までドライブできる。シナイ山の山頂に、ユダヤ教会堂とキリスト教会とイスラム寺院を建てたいと考えている。あなたと二人で山頂に登り、その礎石を築こう」と言った。心に残る言葉だ。

 本当に偉大な人物だった。そして彼の死はあまりにも悲劇的だった。だが恐らく、彼は良い時に死んだとも言える。幻滅が広がる前に死んだのだから。

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 ◆ゴルバチョフ議長の着地に注目/中曽根◆

 中曽根 一人だけつけ加えたいのは、ソ連のゴルバチョフ最高会議議長。未完成だが、恐らく彼の仕事は、後世の歴史家に大きく評価されるだろう。今後、失敗して、弾圧や強権政治が出てきたらだめだが、彼が今まで言ってきた通りに、ことが運んで、東と西の融和が行われ、世界的な和解が達成されれば、新しい時代が築かれる。今は、体操でいえば大演技をやっている最中で、最後にちゃんと着地できるかどうかが問題だ。それを注意深く我々は見守っているし、ぜひ成功させたい。それは二十一世紀への、非常に大きなメッセージ、あるいはお土産になる。

 ◇国際経済・民主主義の行方◇

 司会 二十一世紀の世界では宗教がまた新しい形で政治を動かすダイナミックな力になってくるだろうか。

 キッシンジャー 東欧におけるカトリック教の重要性について、まず考えてみたい。

 国家が絶対的な権力を握る全体主義体制においては、そこに組み込まれることのない、別の形の権力的存在が、反政府勢力の結集拠点となる。東欧では、カトリック教会が、国家権力に異を唱えてきた。カトリック教会の独特な歴史的貢献は、神学的のみならず制度的にも、正義を定義するのは国家ではないと主張してきたことだ。教会は独自の聖職者階級制度と任命制度を維持してきた。それゆえに、ハンガリー、ポーランドなど東欧ではカトリック教が全体主義に対する抵抗拠点になった。

 ソ連でも、今後の国内問題で、ギリシャ正教(注2)以外の宗教が間違いなく重要な役割を果たすだろう。今回のローマ法王とゴルバチョフ議長との新しい関係(注3)がどう帰結するかは不透明だ。というのは、法王がソ連国内のカトリック教徒に対し影響力を持つことによって、ウクライナ西部の民族主義に火がつくかも知れないからだ。 ただし、ギリシャ正教は例外だ。大主教以下を国家が任命してきた。常に国教であり、国家の支持者だった。ゴルバチョフ議長がロシア正教を一応容認するやいなや、ギリシャ正教の教会はアフガニスタン侵攻を支持し始めた。だから、ソ連内のギリシャ正教部分では、宗教が反政府勢力の役割を果たさず、むしろ支持する側に回るだろう。

 イスラム世界でも東欧のカトリック教と同じ役割をイスラム教が果たそう。マルクス主義でも資本主義でも、欧米の物質主義に対する反抗の形で、イスラム原理主義者の一部は自己の主体性を確立し、外部の力に飲み込まれまいと抵抗するだろう。

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 〈注2〉ギリシャ正教はカトリック、プロテスタントとともにキリスト教界を三分、信者は世界中で約六千五百万人と言われる。一〇五四年にローマ教会の指導から離れた。

 ロシア正教はギリシャ正教の一派でソ連国内で最大の勢力を持つ。九八八年にキエフのウラジミル公が正教をロシアの国教と定めたことに始まる。諸民族の統一にも利用され、国家宗教の位置を占めるようになった。ペレストロイカの波に乗り、八八年のロシア正教千年祭は国家的祝賀の様相を見せた。

 〈注3〉八九年十二月、ゴルバチョフ議長がバチカンでローマ法王ヨハネ・パウロ二世と会談し、一九一七年のロシア革命以来断絶状態となっていたソ連・バチカン関係を修復した。

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 司会 宗教もそうだが、マスメディアも、人間の心に大きな影響を及ぼす存在だ。いわゆる大衆化社会になって、民主主義制度にも、様々な問題点が出てきていると思うが。

 ◆危機はらむ情報化社会◆

 中曽根 現代の民主主義は多くの危険性をはらんでいる。高度情報化時代になると、センセーショナリズムが横行し、衆愚政治の危機が生まれてきた。テレビの場合は、直接、イメージが目から脳の中に入り込んでしまう。それが心理的パニックをも引き起こす。言論や表現の統制は民主主義に反するが、マスメディア自身がある程度自制し、ブレーキをかける制御装置を組織的に持たないと、再び独裁者が現れる潜在的危険性があると思う。

 キッシンジャー 現代の民主主義には、ある種の扇動政治の前兆となりかねない要因が少なくとも二つある。一つは、テレビが激しい情緒主義をつくり出すことだ。テレビを通して、人は何が起きたかは見るが、なぜ起きたかを理解しない。

 もう一つは、選挙の当選に必要な資質と、その公職のために必要な資質がますます遊離していることだ。最近の政治家たちは、当選するまでの過程で消耗してしまいがちだ。問題の解決策を見いだすよりも、テレビの夕方のニュースを通じ、そうした問題をごまかす術にたけている。新しい世代層の間では、こうした傾向がますます強まるだろう。

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 司会 現在の議会制度はどうか。特に安全保障や日米関係などで、今の議会の傾向にかなり影響されて、必要以上の摩擦が起きているのではないかと感じる。長期的な政策を立案、実行することがだんだん難しくなっているのではないか。

 中曽根 議会政治にも様々な問題がある。一つは、行政府と議会との関係だ。一時は行政府は非常に強かった。しかし、最近はどこでも議会が強い。これは正しいことだが、ややもすると三権のバランスが失われ、行政府が圧迫されたり、議会のバラバラな意見が持ち込まれて困るような事態がないとはいえない。そういった行政府と議会とのバランスをいかに維持していくかという問題がある。米議会でも、長老議員の指導力が確立していた時代と今の議会では非常に違ってきていて、それが世界にも影響を及ぼしている。

 もう一つは、代表制の危機だ。議員が、選挙区あるいは圧力団体の利益代表に化し、代表というより代理人になってしまう危険性がある。

 キッシンジャー 米国でも行政府と立法府のバランスがいくらか崩れてきた。私が初めて政府の仕事に就いたころは、ある重要な決定がどんな結果を生むか、また、特定の懸案に対する上院の態度はどうなるか、正確に予測できる上院議員が常に五、六人はいた。しかし、今日では、大物議員の影響力が衰退した結果、法案を議会にかける際、議会対策に相当な時間を費やさざるを得ない。

 外交政策はチェス・ゲームのようなものだ。全体の流れの中で、また、最終的な目標を見据えて判断しなければならない。だが、米国は、一手一手の意味を懇切丁寧に説明しながら、五百三十五人の議員の監視の中でコマを動かすことになる。戦略上の一貫性を保つのが非常に困難になる。もちろん、議会は主要かつ重要な役割を果たさなければならない。だれも独断的な行政府を望んではいない。しかし、行政府がなすべきことと立法府がなすべきこととの境目が非常にあいまいになっている。さらには、司法府も立法府の機能に割り込み始めている。

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 司会 二十一世紀の世界の大きな流れとして、欧州共同体(EC)の統合進展、米国・カナダ自由貿易地域の拡大、さらに、太平洋を中心とした新しいブロックなど、ブロック化が進むと思われる。この中から、どんな新しいパワーが生まれてくるだろうか。

 ◆ブロック化は必然/キッシンジャー◆

 キッシンジャー 国家のグループ化は今後ますます進展するだろう。中曽根氏が、活力ある市場の創造には最低三億の人口が必要だという見解を述べていたが、おおむね妥当な数字だと思う。つまり、大半の国は、国内市場だけでは近代経済運営には規模が不足することになり、グローバルな自由貿易システムが必要なのか、あるいは別な体制があり得るのか、という問題に直面しよう。

 理論としては、だれもがグローバルな自由貿易システムを語っている。

 経済理論的には、自由貿易システムでは全員が利益を得ることになる。全体としては確かにその通りだが、政治というのは、平均ではなく、個々の問題を取り上げるものだ。グローバルな経済体制では、勝者もいれば敗者もいる。競争力の強い産業もあれば、弱い産業もある。敗れた者に政治体制との結び付きがあれば、保護を求めるのは自明の理だ。これが保護主義の本当の定義だ。

 だれもが自分に最適な市場を確立しようとする。現実には、これがブロックの形成につながる。

 そうしたブロックの一つがECであり、今一つが米加自由貿易地域だ。今後十年の間にメキシコも加わることは間違いない。すると、三-四億人の市場ができる。日本は正式なブロックを形成していないが、その金融力と生産力を利用して、そうしたシステムを形成しようとしている。こうした動きを嘆く者は多いが、私は必然的な成り行きと考えている。
 
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 ◆要さい化を避けて/中曽根◆

 中曽根 

 ただ、EC経済統合は大輸送船団のようなものだ。英、独、仏のような先発組もあると同時に、スピードの遅い南欧諸国などもある。将来、東欧も入ってくるかもしれない。

 その時、輸送船団の司令官がスピードの遅い者に合わせようとする可能性もある。しかし、それは大変危険なことだ。世界的な普遍性を持つ原則を最大限尊重すべきだ。仮に特別措置をとる場合も、ごく短期間とすべきだ。

 太平洋地域もブロックの萌芽(ほうが)がある。先日もアジア太平洋経済協力閣僚会議(APEC)が行われた。ただ、ECと違って国情、文化など、異質のものが非常に多く、距離も離れ過ぎている。経済の発展度合いも随分違う。その点を考えるとアジアの経済協力は、非常に緩いフォーラムのような形、言いかえれば、調査・連絡機能とか、環境問題への共同対処などを行う、太平洋圏の経済協力開発機構(OECD)のようなものになるのではないか。その際、日米があまり前に出過ぎるのは好ましくない。

 また、こういったブロック間の調整作業も必要になるだろう。それを通じて、世界は一つという、大きな自由貿易の目標に達していく。その中に共産圏も取り込んでいく。太平洋圏には中国も入るだろうし、ECにはソ連が特別の関係として入ってくるかもしれない。それが二十一世紀における望ましい形だ。

 経済の相互依存性が高まれば、経済摩擦は起きても、戦争の危険性は少なくなっていく。

 司会 これからは、国連のような国際機関の役割がますます拡大すると思う。またブロック事務局の力も大きくなるだろう。いわゆる国際官僚たちの影響力は無視できないものになるのではないか。
 
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 ◆国連は構造改革を/キッシンジャー◆

 キッシンジャー 国連ができることとできないことを認識すべきだ。すべての国がすべての問題に関して共通の利害を持つと考えるのは明らかに誤りだ。もちろん、侵略を防ぐという一般的な利害は共有している。しかし、必ずしもすべての国が、ある特定の利害関係を共有するとは限らない。だから、国連は、大国同士の対立問題に関し、一度も有効な手だてを講じたことがない。そう意図されて作られた組織ではないからだ。

 国連が得意とするのは、米国とイランとの交渉の場を設定するなど、他の場所ではなかなか会えない紛争の当事国同士の会合の場を提供することだ。第二に、すでに解決への合意がある紛争を、実際に終結させるためのメカニズムを提供すること。第三に、環境問題や人類の生活の質、人間の尊厳といった種類の問題だ。

 私の考えでは、今や、国連の構造を変える必要がある。日本はその影響力からいって、安全保障理事会の常任理事国になるべきだ。西独もそうだ。また、地域ブロックの事務局が政治的責任を果たせるようになれば、これら事務局も国連に参加を認められるべきだ。二十年程度に一度は改革を断行すべきだ。今世紀末までに、国連はその役割や投票手順などを含め、組織全体を再検討するための会合を開くべきだと思う。

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 ◆意味ない敵国条項/中曽根◆

 中曽根 国連は、地域紛争の解決に非常に貢献したと思う。アフガニスタン侵攻に対する決議をはじめ、大国が関係するものについてもかなり実力を発揮した例がある。

 国連総会の決議は、国際世論に相当な影響力を持つ。そういう意味で、国連はかなり機能していると思う。しかし、日本やドイツの台頭、ブロック化など大きな時代の変化を踏まえて、国連も必要な改革は行わなければいけない。

 その際には、日本、ドイツ、イタリアなどに対する国連憲章の敵国条項の問題がある。これはもう意味がないのではないか。これを言い出すと、すぐ報復主義という誤解を受けたり、ごう慢になったのではないかなどと言われるが、憲章の修正でなくても、せめて、総会の決議で、敵国条項を事実上なくしてもらった方がいい。

 また、これからは環境問題が非常に重要になる。安保理事会に匹敵するような環境理事会を作って、強力に行動計画を進めていくべきだ。

 キッシンジャー 国際官僚についてだが、ブロックが形成されれば、ブロック事務局の力が増す。その点、私はサッチャー英首相の見解に賛同する。各国には選挙で選ばれた代表がいるが、ブロック事務局はだれを代表するのか。事務局の連中は、自分たちは人間の誘惑を超越しており、常に客観的視点を忘れないと主張する。しかし、彼らも、いわゆる官僚主義に固執することになろう。それこそが彼らの権力を強め、自らの偏見を肯定するものだからだ。したがって、各ブロック事務局を何らかの形の民主主義的統制下に置き、野放図な個人プレーに走らないようにする方策が必要だ。

 中曽根 ユネスコの前の事務局長が勝手なことをやり過ぎて総スカンを食らい、ユネスコ改革が行われた。一種の国際官僚の弊害だ。ECにそこまで問題がでるとは思えないが、官僚主義が出ないとは言えない。国連の予算でも、乱費し過ぎるといって、アメリカがお金を出し渋ったこともある。そういう警告を受けて初めて国連官僚というものは目覚めるという面もある。その意味でも、国連は常に改革していかなくてはならない。
 
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戸川利郎